初めに
『アウトブレイク』と言う映画をご覧になったことがありますでしょうか?
これはエボラ様ウイルス感染症を題材にした映画で、ちょっと御都合主義的な所もありますが、
なかなか良くできた映画だと思います。
エボラ出血熱はウイルス感染よって起こる非常に激しい病気で、致死率(罹患して死亡する確率)
が50〜90%という恐ろしい病気です。致死率50%というのはとんでもない数字で、どんなに恐ろしい
感染症でもまず現れる数字ではありません(例えばペストでも9〜10%、スペイン風邪で4%ぐらい)。
そこで、この感染症(ウイルス)についてのまとめノートをつくってみました。
表面をちょこっと見ただけなのであまり役には立ちませんが、この種の映画を見る基礎資料には
なるかもしれません(^^;
尚、最期に一般向けの参考書籍を記載してあります。これらを見ていただければ…このノートは
必要ないですね(笑)
注釈部分はカーソルを合わせれば表示するようにしてありますが、Netscape・Explorer4以下では
表示されない可能性があるため、その場合は下部の注釈を参照してください。
エボラウイルス
フィロウイルス科。
12700塩基対からなる1本鎖RNA(負極性)を遺伝情報として持ち、大きさは80nm×790〜970nm
と細長い。フィロウルス(Filoviruses)のフィロは『糸』を意味するラテン語のFilumに由来。
分離された地域により、スーダン型、ザイール型、レストン型、タイ型に分けられる。
右図はエボラウイルスイメージ
特徴
- 回復期の感染患者血清中に病原ウイルスに対する中和抗体が見つけられない。
抗体反応による「ザイール株」と「レストン株」の区別すらできない。
- フィロウイルス感染症には抗血清投与による感染予防・治療策が使えない。
ウイルス中和が行えないため。
- フィロウイルスに対する防御作用を確認し得た物質は皆無(Peters et el,1991)
年代順発生事例
- 1976年:スーダン南部ザイール国境近くの町ヌザーラ。
6月27日
綿工場の倉庫番の男性が発熱。頭痛・胸の痛みで入院。7月6日に死亡。男性の妻も発病
7月12日
同工場の倉庫番の同僚男性が入院。7月14日に死亡。男性の妻も発病後死亡。
7月18日
綿工場の隣の工場の男性が発症入院。7月21日死亡。
以上の男性3人にはコンタクトが無く、感染経路不明。
これらの患者から感染拡大。合計67名が発病、31名死亡。
- 1976年:ヌザーラ近郊の町マリディ
8月6日
ヌザーラから来た学生が発病。市民病院に入院。この病院で感染拡大。9月までに33名が発病。
マリディでは合計213名が発病し、115名が死亡。
スーダンではこれらの近くの町の発病も含めると218名が発病、151名が死亡。
- 1976年:ザイールのヤンブク村(キンシャサの北方)
8月末
ヤンブク村の病院(ベルギー人による建設)。
医師はおらず看護助産婦訓練後のシスター4名、司祭1名、ザイール人看護婦1名、
医療アシスタント(ザイール人男性)7名。計13名。
マバロ・ロケラ(教師、44歳)が発熱。同所病院にて抗マラリア薬クロロキンの投与を受ける。
嘔吐、下痢、歯茎・鼻・消化管からの出血により9月8日に死亡(最初の感染例とされる)
その後同病院にて同様の患者続出。9月半ばにシスターの一人が死亡。この時点で患者26人、死亡者14人。
同地区担当医師の緊急無線にてザイール大ムエンベ教授が派遣(微生物担当)。打つ手なし。
厚生省は軍による防疫体制をひく。事実上の
『粛清(depopulation)
(注1)
』が行われた。
10月末には患者発生の終息。最終的に患者318名、死亡者280名。
感染拡大の原因は医療体制とされる。機具の未滅菌、防護の未施行。更に死者埋葬の際の慣習として
遺体を清掃する習慣があったため。患者の組織および血液サンプルは
- CDC
(注2)
(米国、特殊病原部カール・ジョンソン博士、
電顕写真フレデリック・マーフィ博士)
- 国防省微生物研究所(英国ポートタウン、ディビッド・シンプソン博士)
- プリンスレオポルド熱帯医学研究所(ベルギーのアントワープ)
- パスツール研究所(パリ)
へ送付。CDCと国防省微生物研究所(英国ポートタウン)でウイルス分離(この2施設がレベル4設備
(注3)
を持っていたため)。
得られたウイルスはCDCのジョンソン博士によりコンゴ川の支流エボラ川にちなみ『エボラウイルス』
と命名。(それまでマールブルグ様ウイルス
(注4)
と呼ばれていた。シンプソンはヤンブクウイルスと提案)
- 1976年:ポートタウン国防省微生物研究所
11月5日
ポートタウンにて実験室感染。
ジェフ・プラット(実験助手)が感染モルモットの肝臓乳液摂取実験中に注射針を自分の親指に刺す。
手順に従い消毒したが9日から頭痛。11日に発熱(37度を超え、40度まで上昇)、および発疹。
ロンドンのコペッツ・ウッド病院に入院。アイソレータ中に収容。英国中のINF
(注5)
とスーダンのエボラ出血熱
から回復した患者の血清200mlを2回投与。20日以降症状緩和。
32日間アイソレータ中で過ごす。
彼の精液中のウイルスは61日目まで陽性。76日以後陰性。完全回復まで10週間経過。
回復の成功にINF、免疫血清が寄与しているかは不明。
- 1979年:ヌザーラ近郊
再発生。34名が発症、22名が死亡(ほとんどが院内感染)
- 1989年:米国バージニア州レストン(ヘーゼルトン霊長類検疫施設。ワシントンDC郊外)
10月4日
フィリッピンより100人のカニクイザル受け入れ。
(注6)
11月の第1週
検疫期間中に6頭が死亡。サル出血熱
(注7)
が疑われたためUSAMRIIDにサンプル送付。
11月16日
サル出血熱ウイルス分離。
11月26日
紐状の電顕により紐状粒子が確認されたため蛍光抗体法により検査。エボラ抗原検出。
さらにエボラウイルス分離。
サル出血熱とエボラの混合感染。
サルの間では空気感染も起している模様。
CDCはジョー・マコーミック博士(特殊病原部長)および妻のスーザン・フィッシャー、
USAMRIIDはCJピータース大佐(疾病評価部長)が担当。
12月6〜8日
残りのサル450頭を全て安楽死させる。
その後テキサスでも発見。
1990年1月
2回目の発生。
動物飼育員の一人(5人いた)がエボラにより死亡したサルの解剖中に怪我を受ける。
エボラ感染は確実と思われたため検査を毎日行い、3日後に血液中にエボラの抗原確認。
感染してはいたものの発病はしなかった。
飼育員全員の検査では初回発生時の血液検査では誰もエボラの抗体は持ってなかったが
3人に抗体確認
(注8)。
計4名が感染したと思われる。
アフリカのエボラと異なり病原性を発揮しない。
- 1992年:イタリアのシエナ
サルにエボラウイルス発見。
(注6)
- 1992年:アフリカのコートジボアール。国立公園タイの森
2週間の間に8頭のチンパンジーが死亡。原因不明だが症状は後記1994年と似ている。
- 1996年:米国テキサス
サルにエボラ発見(再発)
(注6)
- 1994年:アフリカのコートジボアール。国立公園タイの森
11月
国立公園タイの森で行動観察中のチンパンジー(名前ピーマン。1歳6ヶ月)が死亡。解剖により内臓
に未凝固の血液貯溜。
解剖にあたった3人のうちスイス人女性(34歳)が8日後に発熱、急性下痢、発疹によりアビジャン
の病院に入院。
5日後にエボラ様症状が明確になってきたためスイスの病院へ移動。
血液はパスツール研究所(パリ)に運ばれエボラウイルスが分離された。
この株はザイール株ともスーダン株とも違ったもの
(注9)。
死亡したサルからも同じウイルスが分離された。
彼女は2週間後に回復。回復の要因は不明。
死亡したサルのグループでは12頭が3週間の間に死亡。
(17年前は約80頭いたグループが33人まで減少)
。生き残ったうち3人の血液検査では全ての固体の抗体反応は陰性。
感染したチンパンジーは全て死亡したと考えられ、チンパンジーが
自然宿主
(注10)
であるとは考えられない。
(注11)
- 1995年4月末:ザイールのキクウイト
出血を伴う致死的病気の蔓延。ムイエンベ教授(キンサシャ大学)はエボラ出血熱と診断し
保健省へ報告。
保健省は赤痢とみなし報告を無視。
1995年5月6日
病気の情報をアメリカ人医師がCDCに通報。
14名の血液サンプルがプリンスレオポルド熱帯医学研究所を通じCDCに送付。
1995年5月9日
サンプルを受け取ったCDCは9時間後に13人が陽性と判定。
1995年5月10日
各国の医師団がキクウイトの病院に到着。
職員はおらず、患者は放置されたままであった(あまりに悲惨な状況に職員は逃げ出した)
この時すでに163名が発病。
キクウイトでの
感染経路
(注12)
ガスパール・マンガ(男性、炭焼き)森の中での仕事中に自然宿主から感染を受けたと推測される
(注13)
マンガの家族内で広がる。3月末までに7名が死亡。
キンバブ(3月27日死亡)
キムフム(検査助手。キンバブの血液検査を行った)発熱、下血によりチフスの疑い
2回の開腹手術。2回目の手術中に死亡。
この患者に接した外科チームと看護スタッフの間で、発熱、頭痛、筋肉痛、出血などの
症状が出現。相次いで死亡。
- 1996年:中央アフリカ西海岸ザボン、
マクク村(人口150人、リーブルビルの東)
1月末
子供15名が2月に入って次々に発病。全員死亡。
最終的に家族を含め37人が発病し21名が死亡。
原因は子供たちが森で死んでいたチンパンジーに触れたか、食べたこととされる。
- 1996年:中央アフリカ西海岸ブウエ地区
7月
マクク南西約150kmのブウエ地区で猟師が発病(7月24日)。
約一月後の8月23日にブウエの病院で死亡。
その後もマクク村周辺地域で散発的に発生。97年2月までに61名が発病、45名が死亡。
- 2000年:ウガンダのグル(カンパラの北)
9月
グル周辺で出血熱の患者が発生。
10月
南アフリカ国立ウイルス研究所でエボラであることが確認。(スーダン株に近い)
10月半ば
ムバララ(カンパラの南西)でエボラによる死亡者。
11月半ば
マシンディ(カンパラの北西)で4名のエボラ患者
(ムバララの患者と家族、感染源はグルの病院に胃腸病で入院していた女性。病院から逃げてきて感染を広げた)
12月末
グル:患者394名、149名死亡
マシンディ:患者27名、19名死亡
ムバララ:患者5名、4名死亡
合計426名の患者のうち172名が死亡。
文中注釈
- 注1:depopulationは通常「動物絶滅法」と訳される。
重大な動物伝染病の感染爆発が起こった場合、一定地域の全ての動物を抹消し
疫病の蔓延を阻止する。感染拡大阻止のため流行地域の宿主、潜在的宿主を
根絶することをdepopulationという。
- 注2:CDCはCenters for Disease Control and Prevention
(疾病制圧予防センター)の略
- 注3:高度に危険な病原体を扱うための施設。Biosafety Levelの略で、
危険度の少ない方からレベル1〜4までが規定されている
- 注4:同じフィロウイルスに属するウイルスでマールブルグ出血熱の
原因ウイルス。
- 注5:インターフェロン(INF)。抗ウイルス作用を示す薬剤。
- 注6:エボラ感染サルは全てフィリッピンのファーライト科学研究所が輸出したもの。
年間1500頭を輸出しているが、規模から考えてかなりのサルは野生のものを捕獲したと
考えられる。1997年春にフィリッピン政府はこの繁殖施設の閉鎖を命じ、645頭のサルは
安楽死させられた。
- 注7:人間には感染しないと言われている。
- 注8:抗体が検出されたということは感染歴があるということ。
- 注9:同じエボラウイルスでも若干の違いがあり、これらは分離された地域の
名前をとって、ザイール株、スーダン株、レストン株などと呼ばれる。
- 注10:ウイルスの増殖は感染した宿主に完全依存しており、感染後に宿主の生命活動が
停止してしまうとウイルスは増殖できない。このため感染しても影響のでない宿主(不顕感染)を
自然宿主と言い、感染により激しい影響の出る宿主(生命活動の停止)を終末宿主と言う。
- 注11:この感染については背景に人間による生態系の破壊が指摘されている。
森の樹木の不法伐採、耕地化により急激に増えたげっ歯類が自然宿主ではないかとの疑いが
持たれている。
- 注12:WHOの要請によりムイエンベ教授が作成した感染経路の筆頭はキムフムになっており、
この資料がマスコミに流れたためキムフムが感染を広めた張本人とされ、彼の遺族はキクウイト
にいられなくなった。
- 注13:CDCはキクウイトでの最初の感染者と考えられるマンガが作業していた熱帯雨林で、
自然宿主探索のため野生動物の捕獲調査を行っているが見つかっていない。
参考書籍
- 殺人ウイルスへの挑戦、畑中正一、集英社、1995年
- やさしいウイルスの基礎知識、岩本愛吉、オーム社、1997年
- エマージングウイルスの世紀、山内一也、河出書房、1997年
- 図解雑学ウイルス、児玉浩憲、ナツメ社、1998年
- 突発出現ウイルス、スティーブン・モース編、佐藤雅彦訳、海鳴社、1999年
- キラーウイルス感染症、山内一也、ふたばらいふ新書、2001年
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