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敢えてのっけから、ご連絡はkatote@ff.iij4u.or.jpへとメルアドをかかげたのは、本サイト久しぶりの、「尋ね人」のため。かつて旧ソ連在住日本人粛清犠牲者やワイマール期在独日本人関係者の発掘で本ウェブサイトは大きな威力を発揮し、10人以上の旧ソ連粛清犠牲者ご遺族に命日や埋葬地をお伝えするボランティア活動の土台を築きましたが、今回は、日本の侵略戦争の犠牲者である、ある母と娘の探求です。右の写真は、1936年に神戸で結婚したばかりの夫婦のものです。男性は鬼頭銀一、1903年、三重県鈴鹿市生まれ、1925年アメリカに渡り、敬虔なキリスト教徒としてコロラド州デンバー大学に学びました。在学中に社会学のチャーリントン教授の影響を受け社会問題にめざめ、アメリカの労働運動に接近しました。同級生に後の野坂参三のカルフォルニア滞在時代の助手、ジョー小出がいました。本サイトの長い読者の方ならば、私の2004年夏のアメリカがコロラド州デンバーだったことを覚えていらっしゃるかもしれません。鬼頭銀一は、英語と理論に優れていて1927年にアメリカ共産党に入党、28年にはニューヨークのアメリカ共産党本部で、米国共産党日本人部の最高指導者である初代の全国書記に抜擢されました。でも別に恐ろしい「アカ」ではなく、写真にあるように、知的な好青年でした。
その鬼頭銀一は、どうやら1929年にはアメリカを離れ、ベトナム経由中国の上海に入ったようです。当時上海には、世界中から、中国革命を支援するコミンテルン(共産主義インターナショナル)系列の活動家たちが集まっていました。本来なら歴史的に名を残すはずだったのが、ここで鬼頭銀一が、当時上海でアジアでの情報戦にたずさわり始めたリヒアルト・ゾルゲと、当時朝日新聞記者の尾崎秀実を引き合わせたこと。1941年検挙後の尾崎の供述を読めばそう出てきますが、一緒に検挙されたゾルゲが「有名なアメリカ共産党員鬼頭銀一」との関係を否定し、尾崎と会ったのはアグネス・スメドレーの紹介だったと強く主張したため、日本の検察当局はゾルゲの供述に合わせて尾崎の供述を変更させ、判決文は、スメドレーを仲介人にして、鬼頭銀一の名は入りませんでした。しかし、同じく被告の水野成の判決文には鬼頭銀一が出てきますし、最近、鬼頭銀一のアメリカ共産党での活動を明示する資料がモスクワでみつかり、ゾルゲと尾崎の出会いは、したがって後のゾルゲ事件の発端は、鬼頭銀一の上海での汎太平洋労働組合を拠点にした活動であったことが、ほぼ証明されました。
ただし鬼頭銀一は、31年9月満州事変勃発時に上海の日本領事館警察に捕まり、日本に送還されて、友人の日本人治安維持法違反容疑者木俣豊次の逃亡幇助の罪で32年末まで市ヶ谷拘置所に収監されていました。執行猶予付きで出所した鬼頭銀一は、33年1月から37年9月まで、国際港神戸にゴム製品販売「鬼頭商会」を開業、その間32年に上海から帰国し大阪朝日新聞に勤めた尾崎秀実と頻繁に会い、まだゾルゲが日本に入る以前から、「尾崎・鬼頭グループ」を作っていました。これまでのゾルゲ事件研究では、尾崎はゾルゲの協力者、したがって「ソ連のスパイ」とされるが、尾崎や鬼頭は、ゾルゲ諜報団とは別個に、日本の中国侵略に反対し、日中民衆の連帯を模索する活動を続けていました。ただし鬼頭銀一は、34年9月の尾崎秀実東京転勤後、「ゾルゲ・尾崎グループ」に加わった形跡はありません。ソルゲ事件における鬼頭銀一の重要性については、一度講演「イラク戦争からみたゾルゲ事件」で述べたことがあります。
1937年9月、鬼頭銀一は、神戸の店をたたんで南洋パラオ群島のペリリュー島に渡り、海軍基地建設中のペリリューに日用雑貨品店を開きます。そして7か月後の38年5月24日、店に出入りしていた30歳くらいの男から缶詰のゆで小豆を勧められ、食してまもなく苦悶し死亡します。日本の実家に伝えられたのは「謀殺の疑いあるも、糾明の術はなかった」ーーそれが日本の特高警察・憲兵隊による謀殺か、当時粛清最盛期のスターリンの刺客による暗殺か、非政治的・個人的な怨恨によるものか、あるいはたんなる食中毒か、今日でも不明のままです。その事情を一番よく知るのが、写真右の、ペリリュー島で一緒に暮らしていた妻なみです。1907年岐阜県大垣市生まれで、結婚前は三橋(みつはし)なみ、35年に鬼頭銀一と結婚し36年に長男誕生、38年4月、つまり鬼頭銀一「謀殺」事件直前に長女南生子(なおこ)が生まれたばかりでした。事件後、長男は日本の鬼頭家に引き取られましたが、妻なみと生誕1か月で父を失った南生子は、そのままパラオにとどまったといいます。海軍基地が完成したペリリュー島は、太平洋戦争の激戦の舞台でした。1944年の米軍との戦争は、1万500名の日本兵中、生き残りがわずか34名という悲惨な玉砕でしたから、なみ・南生子母娘は、パラオ本島に移っていたと思われます。
日本の敗戦後、母娘は、いったん亡夫の実家、三重県鈴鹿市の鬼頭家に引き揚げてきます。しかし夫のいない実家で姑ともうまくいかず、長男は鬼頭家に残したまま、なみは娘南生子と共に鈴鹿を離れ、行方不明となります。いつの時点かはっきりしませんが、再婚して「島原なみ」となり、遅くとも1950年以降は「島原なみ」として日本で生きてきたと思われます。その後1970年代に、東京都世田谷区経堂駅前のアパートに、南生子も結婚して「福原南生子」となり、1男1女の母として夫とともに「島原なみ」と同居していたという情報はありますが、そこもすぐ行方不明となり、以後消息はありません。大垣出身「島原なみ」は、1907年生まれですから、もう生きてはいないでしょう。しかし「福原南生子」さんは、1938年、名前のように南の島の生まれですから、まだご存命の可能性が高いです。二人の子供もいたとのことですから、日本のどこかで、ひょっとしたら亡父鬼頭銀一の行方を捜しているかもしれません。手掛かりは以上にすぎませんが、どなたか「岐阜県大垣市出身島原(三橋・鬼頭)なみ」さん(写真右)、「南洋パラオ生まれの福原(鬼頭・島原)南生子」さんについて、何らかの消息・情報をお持ちの方は、私の方にご一報ください。実のお兄さんはご存命で、連絡がついています。
2008年の私の締めくくりは、10月に公刊した本サイト「国際歴史探偵」の成果を駆使した「在独日本人反帝グループ」についての集大成、加藤
『ワイマール期ベルリンの日本人ーー洋行知識人の反帝ネットワーク』(岩波書店)でした。ウェブ上では、ACADEMIC
RESOURCE
GUIDEさん、千葉海浜日記さん、クマのデラシネ日記さん、京都グラムシ工房さん、学問空間さん、芹沢光治良文学愛好会さんらがコメントしています。活字の世界でも、『読売新聞』11月16日に
佐藤卓巳さんの、『週刊朝日』12月5日に鎌田慧さんの、『日本経済新聞』12月14日に池田浩士さんの、共同通信配信で『高知新聞』11月16日、『神戸新聞』『山形新聞』『宮崎日日新聞』『熊本日日新聞』『山陰中央新報』11月23日、『新潟日報』『愛媛新聞』11月30日、『信濃毎日新聞』12月21日などに川上武さんの、『西日本新聞』12月28日「本の森」に今川英子さんの、『週刊読書人』新年1月16日号に平井正さんの、書評が出ています。雑誌では『季刊 唯物論研究』第106号(2008年11月)に松田博さんの長文書評が、『改革者』12月号に短文紹介が、掲載されています。5000円の高価な本で、なかなか書店では見かけないでしょうが、岩波書店ホームページの目次・序章をpdfでたち読みできる専用ページから、またはアマゾンなどを通して、ご注文いただければ幸いです。この危機の時代を迎えて、80年前のドイツで世界大恐慌・大量失業・国内対立激化からヒトラー政権成立を目撃した当時の在独日本人知識人・文化人の生き方の中から、何かを汲み取って頂けるでしょう。
(2008/1/1)
関連文献:
ちきゅう座スタディルーム連載1−1「ゾルゲ事件の真相究明から見えてくるもの」、1−2「尾崎秀実の10月15日逮捕は検事局が作り上げた虚構のひとつ」、2−1「ゾルゲ事件の真相究明から見えてくるもの 2」2−2「尾崎秀実は日本共産党員だった」にあるように、渡部富哉さんは、『偽りの烙印』(五月書房、1998年)でゾルゲ事件発覚=伊藤律自白説の虚構を暴いた、在野の歴史家、社会運動研究センター東京の代表です。この間一緒にゾルゲ事件を探求して、渡部さんは、GHQ=G2ウィロビーー報告をもとにした尾崎秀樹ら通説の伊藤律=「生きているユダ」説が占領期の政治的な虚構であるばかりでなく、ウィロビー報告で有力証言として用いられている川合貞吉『ある革命家の回想』が、虚構構築のために創られた権力の情報戦への迎合であり空中楼閣であることを明らかにしようとしています。また、私が尾崎秀実とゾルゲを引き合わせたアメリカ共産党日本人部党員鬼頭銀一を追跡してきたように、権力のシナリオには不都合なために抹殺されてきたゾルゲ事件の影の犠牲者、元東亜同文書院教授「野澤房二」について深く調査し、多くの新事実を明らかにしています。以下に紹介するのは、上記人物を私と渡部さんで探索しようということになった新しい謎の解明のために、渡部さんが近しい人たちに送った捜索のための覚え書きです。皆様のご協力をお願いします。
野沢房二については、これまでも講演会などで何回か報告してきたし、拙文「ゾルゲ事件覚え書」にも収録してきました。2006年11月5日、尾崎・ゾルゲ墓参会の折り記念講演を頼まれ、表記の報告をおこない、のち参会者からの要請で報告集を20部ほど作成し、希望者に配布しました。 今回、野沢房二の生誕百年の節目にも当たるので、さらに大幅に改訂を行い、ようやく初稿を書き上げ研究者各位に発送することにしました。それは次の理由によるものです。
野沢房二の「遺稿」の発掘によって、これまでのゾルゲ事件研究があまりにも特高資料によりかかり、必然的に知らずのうちに特高史観を伝搬する結果となってきたのは残念ながら事実です。なかでも川合貞吉著『ある革命家の回想』や『ゾルゲ事件獄中記』または彼の供述調書や論文は、野沢房二の「遺稿」の出現によって再検討を迫られることになったと言えます。
川合貞吉は、特高の筋書にそって供述し、彼の著作は供述調書の釈明のために書かれたもので、真実は全くなかった。1936年の新京領事館警察の検挙、「満州国際諜報団事件」でゾルゲのことを黙秘したことが川合の勲章となっているが、これも小説であって、検挙されたことは真実だが、その検挙は1930年12月の東亜同文書院の学園闘争による検挙洩れの検挙で、「諜報団事件」などは小説であって、虚構のものでした。
何よりの証拠に、川合が云うところの「記事解禁」なるものは国会図書館をくまなく調べてもなかった。ゴードン・プランゲも川合に踊らされて解禁の月日まで書いた。しかし、本当に解禁された記事を彼が確認したのなら、作家(歴史家)であるならばその記事から具体的な情景を読者に伝えたいと思うのが常ではなかろうか。しかしそれは何もない。調べていなかったのだ。彼の供述によって、船越寿雄、河村好雄が獄死し、野沢房二までが彼の供述によって検挙された。これらの人物は冤罪であった。 河村好雄と同級生だった中西功が彼の鎮魂歌を書くことを予告しながら、政治活動の多忙さのために、ついに書き切れずに物故してしまった。とすると残された者が果たさなければならないだろう。
37件の関東軍の機密資料が王学文を通じて中共に流れ、20数名の者が検挙されるという大事件にもかかわらず、副島隆起一人だけが7カ月の実刑であとは釈放されるなどということは、戦前の社会運動史にはあり得ない。憲兵隊の資料が敵国に流出したのなら当然この事件は憲兵隊の扱う事件の筈ではないか。管理責任者は当然処罰が免れない筈ではないか。──
船越寿雄(懲役10年)は、ゾルゲ事件と関係がなかった。冤罪です。ゾルゲグループの一員にしてしまったのも、川合の供述でした。因みに彼は、他のゾルゲ事件被告に被せられた国防保安法違反は起訴段階までで、判決文には治安維持法違反だけで懲役10年を科せられた。スパイ行為はなかったとされたのです。
いま河村好雄、船越寿雄たちの無念を晴らすために、精力的に調査をしていますが、なにしろ資料がほとんどみあたらないのが実情です。手さぐりながら懸命な努力をしています。2章「ある革命家の虚像と実像」が裏付け調査で難航しています。
この「野沢房二の孤高の闘い」をご覧になった方に調査の協力をお願いしたいと思って、初稿にもかかわらず、製本してお届けした次第です。
次のことを調べています。心当たりの方はご一報頂ければ感謝します。
日高為雄 (上海週報社記者)
坂巻 隆 東亜同文書院細胞員、戦後日本共産党長野県委員、追悼集が出た筈。
手島博俊 (この人物は東亜同文書院の卒業生と思われる。西里竜夫、中西功らを中共党組織に_いだ人物で、中共諜報団事件記録によると、「死亡」とだけでてきます。獄死したと思われます。実兄がいたようです。
副島隆起 懲役7カ月の後どうなったのかは不明。
河村好雄 満州日新聞上海支局長となった。東野大八『風流人間横町』(川柳雑誌、昭和35年11月)掲載の「上海の言葉」を中村稔氏から送って頂きました。彼は1935年に大連芸術座の演劇活動に参加しており、藤川夏子著『私の歩いた道』(はぐるま座発行)に一行だけ名前が出てきます。昨年、「満鉄会会報」に大連芸術座」の記事が特集されておりました。編者から貴重なてがかりになる資料を紹介されました。息子さんがいる筈です。健在なら75歳前後か。
大形孝平はゾルゲ事件関連で検挙されたか、事件の回想があるかご存じの方。
新庄憲光 中共諜報団事件で獄死している。東亜同文書院卒業。
坂田寛三 詩人 この人物は上海時代に野沢房二の勧誘でゾルゲ諜報団に加担したと船越寿雄の判決文に出てくる。ネットで索引したところ「世界詩人」集団の記録があるが、船越や野沢が検挙されたのだから当然、坂田も検挙された筈だが、その後のゾルゲ事件関係記録には全く登場しない。事件当時すでに死去していた可能性もある。船越の冤罪の立証に欠かせない人物。
船越寿雄については丸山昇著「ある中国特派員」によって問題提起されているものの、その後の研究はない。船越寿雄の娘さんの所在。丸山昇さんに野沢房二の記録を読んでもらおうと思ったが既に死去されたあとでした。丸山昇著には娘さんにインタビューしたことがでている。知りたいことは名前が順であるか、潤か、川合は名付け親で順と名づけたと書いているがこれは嘘の筈。確認したい。船越寿雄は冤罪だったことを伝えたい。
菅沼不二夫(同盟通信社にいた)中西功に尾崎秀実が検挙されたことを記事解禁まえの41年12月にいち早く知らせた人物。 ゾルゲ事件で取り調べられたかどうか。
田中慎次郎は42年3月24日釈放という記録がありますが、確認したい。本人の回想などないでしょうか。朝日新聞社の「新聞と戦争」欄にとりあげられる筈です。
これらの人々について何か情報をもっていないか、何か調査の方法(手がかりになるもの)がないか。どんな些細なことでもご教示願いたくお願いのために[初稿]ながら発送させて頂きました。押しかけ女房で恐縮ながらお願いします。
渡部富哉 メール watabe38@parkcity.ne.jp
最近は美術づいてます。2002年7月7日のNHK教育テレビ「新日曜美術館」で取り上げられた、群馬県桐生市大川美術館で開催中の「描かざる幻の画家 島崎蓊助遺作展」(9月末まで)はもちろん一押しで、「エルベ川」などメインのセピア色の絵も、戦争末期の中国従軍スケッチも、様々にイメージの広がるすばらしい作品です。ぜひ夏休みに桐生を訪れ、ご覧下さい。作者の画家島崎蓊助は、『夜明け前』執筆期の父島崎藤村に反抗して、国崎定洞や千田是也らの「在独日本人反帝グループ」に飛び込み挫折した体験を持ちます。そのため大川美術館ニュース『ガス燈』第53号(2002年7月10日号)に、「島崎蓊助のセピア色と『絵日記の伝説』」という美術評論(まがい)まで、書いてしまいました。8月末には、平凡社から、加藤哲郎・島崎爽助編『島崎蓊助自伝──父・藤村への抵抗と回帰』が刊行されます。同時に平凡社から出る岡田桑三評伝、原田健一・川崎賢子著『岡田桑三と映像の世紀』と共に、ぜひご一読を。
2002年7月21日の「新日曜美術館」では、本HP「ドイツ・スイスでの竹久夢二探訪記」(いつのまにやら「Yumeji
りんく」にも入ってました)もちょっぴりお手伝いして、「独逸、夢のかなたへ──知られざる竹久夢二」が放映されました。『平民新聞』の挿絵画家から出発した「社会派」夢二の再評価は新鮮で、ドイツで書いた油絵「水竹居」に焦点を当て、美輪明宏さんの夢二談義も秀逸でした。もっとも当日、私は群馬高崎哲学堂の「よろこばしき知識」の皆さんのお招きで、「井上房一郎『洋行』の周辺──勝野金政から島崎蓊助まで」と題した芸術がらみの講演でした。そこでお会いした旧知の工芸家水原徳言さんと、思わぬ芸術談義。ブルーノ・タウトの高弟であった水原さんと、タウト、井上房一郎、勝野金政が協力した銀座「ミラテス」の話や、写真家名取洋之助、建築家山口文象らとのつながりの話も愉快でしたが、実は水原さん、晩年の夢二の愛した伊香保・榛名山と高崎が近いものですから、夢二の世界にも大変詳しかったのです。朝のNHKに出てきたナチスの政権獲得時ドイツで竹久夢二が東洋画を教えていたヨハネス・イッテンのイッテン・シューレについてもよくご存じなばかりでなく、なんと、夢二のイッテン・シューレの教え子で、パリに逃れたユダヤ人画家エヴァ・プラウドさんが、1935年頃来日してタウトに会いに来た際、一緒に同席したというのです。そこで夢二の話は出なかったそうですが、同じくナチスに追われ東洋を愛したユダヤ人芸術家二人が、日本で初めて会ったという話に感激。90歳をこえた水原さんに、エヴァ・プラウドの夢二についての手紙と資料が、法政大学大原社会問題研究所「藤林伸治資料」にあることをお知らせし、すっかり意気投合しました。おかげで講演の方もスムーズに行き、地元の熱心な皆さんと遅くまで語り合うことができました。
●(2005・10・3)一部訂正。「ナチスに追われ東洋を愛したユダヤ人芸術家二人」として、ブルーノ・タウトをユダヤ人としていましたが、これは、今日も流通する俗説による、思い込みでした。タウトは、北東ドイツ・ケーニヒスベルク生まれのドイツ人でユダヤ系ではないと、水原徳言さんのお知り合いから、ご指摘を受けました。俗説の根拠も判明。ナチスを嫌ってドイツを離れた日が物理学者アインシュタインと同じだった、という説なようです。しかしこれも、アインシュタインは1932年12月10日、タウトがベルリンを離れたのは1933年3月1日が、史実のようです。ここに訂正して、水原さんほか関係者にご迷惑をおかけしたことをお詫び致します。
NHK「独逸、夢のかなたへ──知られざる竹久夢二」は、美術番組としては大変良くできていましたが、実は担当ディレクターに取材をお願いして、結局わからずじまいで放映できなかった問題がありました。私の「ドイツ・スイスでの竹久夢二探訪記」 のきっかけとなった、1933年竹久夢二のユダヤ人救出地下運動への関わりです。関谷定夫『竹久夢ニ 精神の遍歴』(東洋書林、2000年)にも描かれ、イッテンの息子さんがスイスで夢二の絵を今なお保存していることまでは私が調査し、今回NHKがその水墨画等10数点を画像に収めてくれましたが、イッテン家ご遺族からは、ユダヤ人救出問題での証言はとれなかったそうです。夢二の知られざる活動が、美術の師イッテンのルートではなく、当時の在独日本大使館員やベルリン大学日本人留学生が関わったルートであったからでしょう。この線で、最近気になるのが、夢二の「ベルリンの公園」と題する水彩ペン画に関わる謎。郵政省の絵葉書になった左側の絵が有名で、多くの夢二画集に収めてあり、今回NHK「新日曜美術館」でも放映されましたが、実は、全く同じ構図の「ベルリンの小公園」という、右の絵も実在します(比較しやすいように並べました)。どちらも現在は夢二の生まれ故郷岡山の夢二郷土美術館所蔵ですが、左側の「公園」は、かつて昭和天皇侍従長徳川義寛の「寄贈」とされていました。ところが先日旧ソ連日本人粛清犠牲者の健物貞一遺児アランさんがロシアから来日して、岡山のご親族と対面したさいに、夢二郷土美術館を訪れ確かめたところ、これまで徳川義寛寄贈とされていた「ベルリンの公園」は、1983年に画商から購入したもので、徳川義寛が1982年に寄贈したのは、「公園」と全く同じ構図で同じく紙にペンと水彩で描いた「ベルリンの小公園」という右側の絵であったことがわかりました。徳川義寛が昭和57年10月13日に絵を持参し寄贈したさいの徳川氏自筆のメモをみせてもらったところ、徳川義寛は、その絵を「公園にて」と名付けており、自分がベルリン大学入学後1933年に夢二から記念にもらったものだと解説し、これがベルリン西部「ウィッテルスバッヒャー・プラッツ」のスケッチで、中央に「子どもが曳いている玩具」があり「右上隅のYume
1933
Berlin」と署名がある、と書いています。ところが、数年前まで徳川義寛寄贈とされてきた左の「公園」には、子どもの後ろ姿はありますが「玩具」がなく、また署名は右下です。右の「小公園」の方には、確かに「玩具」が入っており、署名も右上です。左の「公園」よりややこぶりの、徳川氏がベルリンから持ち帰った右の「小公園」は、数ある夢二の画集でも、栗田勇編『竹久夢二 愛と詩の旅人』(山陽新聞社、昭和58年)149頁にタイトルも解説もなく掲載されているくらいで、私の見た他の画集では、最新の『竹久夢二 名品百選』(そごう美術館)をはじめ、もっぱら画商経由の左側の「公園」のみが掲載されています。
2枚の「公園にて」の絵は、姉妹画で、芸術的価値も同等な感じです。むしろ同一構図でありながら、モデルの服装、ベンチに座る人々、それに署名の位置とこどもの玩具の有無が異なり、芝生の花のかたちからは季節の違いを感じさせます。最新の小川晶子『夢二の四季』(東方出版、2002年)では、左の「公園」は「夏」の作品とされていますが、すると右の「小公園」は「春」か「秋」でしょうか? 徳川義寛はベルリン大学で美学を学んでいたので、芸術作品として譲り受けたのでしょうか? それとも夢二から油絵をもらった今井茂郎、神田襄太郎ら当時の日本大使館員と同じように、ベルリンで夢二に経済的援助をした見返りの謝礼でしょうか? ちなみに、神田襄太郎は東大で新人会蝋山政道らに近く、福本和夫にベルリンでドイツ語を教えたといいます(石堂清倫『わが友中野重治』平凡社、2002年、187頁)……。ここからは、私の政治学的推論です。1932年10月-33年9月在独の竹久夢二(帰国して翌34年病死)は、徳川義寛をはじめ、当時知り合ったベルリン大学の日本人学生たちに、この姉妹画を分け与えたのではないでしょうか? 当時のベルリン大学在籍日本人正規学生約10名の中には、私の「在独日本人反帝グループ関係者名簿」にあるように、国崎定洞の影響下にあった左翼学生が数人入っています。バウハウスに影響を受けた夢二の榛名山産業美術研究所構想と1931-33年「洋行」の有力支援者の一人であった島崎藤村の、3男島崎蓊助も、ベルリン大学付属外国人向けドイツ語学校に通い、夢二と3か月ほどドイツ滞在が重なります。32年末に離独する蓊助が夢二の絵をドイツから持ち帰った形跡はありませんが、私が集めた「在独日本人反帝グループ」関係者の聞き取りでは、名古屋の百貨店主の息子で反ナチ「革命的アジア人協会」の活動家であった八木誠三の未亡人と、当時ユダヤ人の恋人を持ちベルリン大学内のユダヤ人地下学生運動に加わっていた井上角太郎のご遺族は、「竹久夢二の絵を持っていた」と証言しています。八木・井上は、当時徳川義寛の同級生で、姉妹画を持ち帰った可能性があります。特に井上角太郎は、当時の夢二の在独スポンサーであったベルリン日本商務官事務所(今井茂郎ら)の通訳をアルバイトとしていました。徳川義寛が右の「小公園」を夢二からもらい持ち帰ったとすれば、左の「ベルリンの公園」の方は、どんなかたちで日本に戻ってきたのでしょうか? どなたか、晩年の竹久夢二に詳しい方の、ご教示を期待します。情報があれば、ぜひメールを!
朝日新聞2002年11月27日外信面の「スターリン3万人? 虐殺地 最大規模の埋葬場所発見」という記事中に、「サンクトペテルブルグ(旧レニングラード)でスパイ容疑で銃殺された日本人、三重県出身のハットリ・サンジという名で、ペテルブルグ・ラドロフ劇場の舞台監督だった。38年に処刑されたとの記録があった。日本でも、特高警察の記録に同一人物と見られる『服部』という日本人がソ連でスパイ容疑で逮捕された可能性もあるとみられていた」とあります。発見したのは、ソ連崩壊後、ロシア政府が旧ソ連の国家犯罪解明に消極的だったため、自らの学問的・思想的良心でスターリン粛清犠牲者の発掘を十年以上続けている歴史学者などのボランティア団体「メモリアル」の人々、フィンランド国境に近い小さな村に「スターリンの虐殺地がある」という村の言い伝えを手がかりに、ロシア軍演習地を発掘したところ、1936-38年期に粛清された3万人以上と見られる犠牲者埋葬地がみつかり、遺骨そのものは特定できないが、その犠牲者名簿中に「服部サンジ」の存在が確認されたというものです。本HPのリピーターの方は、お気づきかもしれません。「情報収集センター」の特別研究室「今年の尋ね人」で、2000年に「1937年9月、レニングラードで粛清されたと推定されるハルピン日露協会出身、舞台監督服部(はっとり)某氏についての情報をお寄せください!」とよびかけ探索し続けてきた、スターリン粛清日本人犠牲者の一人です。私の最新著『国境を越えるユートピア』(平凡社ライブラリー)185頁にも、「犠牲者ナンバー27」として出ています。行方不明になってから、実に65年後の死亡情報確定です。そして、ロシアには、なお数十人の消息不明の日本人犠牲者がいます。
「服部」の名前の「サンジ(参治?)」と「三重県出身」という「メモリアル」のロシア語KGB資料からの調査結果は、今回初めて現れたもので、以下の私の「日本人犠牲者・候補者名簿」収録情報と照合すると、ご遺族に到達することが、できるかもしれません。お心当たりの方は、ぜひ
ご一報下さい。
★ レニングラード小劇場の舞台監督服部氏 1937年当時、旧ソ連で演出家土方與志の知人であったレニングラード劇場の舞台監督で、『特高月報』昭和16年7月の「プロット代表として入露せる土方與志の検挙」中の「在露中交際せる日本人」によると、「服部某 ハルピン日露協会出身、チタ領事館に勤めたることあり。レニングラード俳優学校卒業後レニングラード小劇場舞台監督、昭和12(1937)年9月頃、日本スパイの嫌疑により逮捕せらる」とされており、日本人粛清犠牲者の一人であった可能性が高い。 資料の出所は、土方與志の帰国後警察供述調書(土方與志『演出者への道』勁草書房、所収)と『土方梅子自伝』(早川書房)で、これは、2年前に本HPと読売新聞・日経新聞等の協力で身元が判明し、ご遺族に命日・埋葬地をお伝えできた、「テルコ・ビリチ=松田照子」の場合と全く同じである。「テルコ・ビリチ=松田照子」については、この間の調査で土方夫妻の証言が正しかったことが証明されたので、この「服部某」についても、同じ運命にあった可能性がいっそう強くなりました(加藤『モスクワで粛清された日本人』、内務省『社会運動の状況 昭和10年 共産主義運動』)。

私にとっての内田義雄『聖地ソロフキの悲劇』(NHK出版)の収穫は、白海ラーゲリを体験した二人の日本人の話。一人は『長い旅の記録』(中公文庫)の寺島儀蔵さんで既知でしたが、もう一人は私の「旧ソ連日本人粛清犠牲者名簿」に「『ソ連共産党中央委員会通報』1990年11月号の銃殺者リストに、別名タナカ・シマキチ、キムラ・ジサブローとある。1909年生まれで、41年に粛清された日本人犠牲者」とあるものの、全く手がかりなしだった「カタオカ・ケンタロウ」の話でした。著者内田さんの調査では、1935-38年にソロフキ収容所で一緒だったロシア人チルコフの回想録に、「カタオカ」は印象深い囚人仲間として出てくるそうで、「元将校でスパイ」とされてラーゲリに入れられ、ラーゲリでは理髪師をつとめていたとか。さらに、チルコフ回想には、収容所長から「カタオカ」が自分の他の日本名についてきかれる場面があり、そこで「ジサブロウ・キムラ」「テバシ・カメキチ」「カスギ」と出てきます。このうち「キムラ」は、やはり私の「旧ソ連日本人粛清犠牲者名簿」にある「木村治三郎(きむら じさぶろう)1929年ウラジオストックから入ソ、日本側警察資料である『思想月報』第33号(昭和12年3月)では、石川四郎と共に上海より浦塩に渡り入露、宣伝員となるも35年6月現在政治犯として入獄中、とある。別名カタオカ・ケンタローと同一人物で、1941年に銃殺された可能性がある」としてきたものです。つまり、「カタオカ」と「キムラ」が同一人物であった可能性を推定してきましたが、その通りだったようです。
ここに出てくる「石川四郎」は、31年に山本懸蔵の指示で日本に帰国、日本海員組合刷新会を組織しようとして特高警察に逮捕された活動家です。「カタオカ」も海員組合で活動したと推定されます。そこで内務省警保局『昭和6年中に於ける外事警察概要・露国関係』の「国際海員倶楽部宣伝員名簿」にあたると、木村の方は出身地の記載がなく、「本年(1931)春卒業、浦塩邦人主義者グループに加入し居たるも本人が思想的に共産主義と相容れざるものあるを認め右グループより脱退し一時反革命運動を企図し居る6月頃、経済状況視察の為ウラル方面に赴きたる由なるが約3か月前より浦塩ゲペウ(GPU)に拘禁せられたり」とあり1931年にウラジオストックで逮捕されたらしいことがわかるだけです。しかし、すでに日本で逮捕された「石川四郎」については、「明治39(1906)年12月16日生、本籍東京府三河島町字町屋264戸主長吉4男、出生地栃木県河内郡瑞穂村大字下桑島、宇都宮市立下野中学校2年退学、労働総同盟で活動、昭和4(1929)年10月初旬上記木村と共に函館港内停泊中の露国貨物船に潜入密航、ジャパニーズコミュニストと称し入露希望浦塩上陸」と重要なてがかりがあります。『思想月報』では石川は昭和6年中に予審手続中止で釈放されたようですから、こちらの方から「木村治三郎=カタオカ・ケンタロウ」につながる可能性があります。内田さんは、私のリストも『ソ連共産党中央委員会通報』もみていなかったため、「カタオカ・ケンタロウ」について、「この日本人の本名だったのか疑わしいと言えるし、確かめようがない」と書いていますが、どちらが本名かは確定できませんが、これで複数以上の資料から「木村=カタオカ」の実在が確認できました。ロシア正教弾圧から入って内田さんが発掘した白海ラーゲリの日本人体験者は、この本では寺島・カタオカの二人だけですが、私と藤井一行教授の共同研究では、勝野金政や永井二一らも、白海バルト運河の建設に強制動員されていました。早速内田義雄さんにコンタクトしようと思いますが、本HPではさしあたり、この「木村治三郎=カタオカ・ケンタロウ」を、新たな「尋ね人」に加え、情報を求めることにします。先日のアメリカ西海岸日系労働運動指導者健物貞一のケースのように、うまく日本のご遺族までつながればいいのですが。健物貞一については、英語版HP「国際交流センター」で、1923-32年のサンフランシスコ時代の軌跡の探索・情報収集を始めました。
2001年12月15日午後2ー5時、勝野金政生誕百年記念シンポジウム」が、勝野の母校であった早稲田大学で開かれ、小野梓記念講堂いっぱいの大盛況でした(プログラムと報告要旨・勝野金政著作目録)。前回更新で書いたように、月刊『新潮』10月・12月号に「20世紀における『政治と文学』の神話学」という力作を連載して、勝野金政『赤露脱出記』を文学的に高く評価している山口昌男さんが、大雪の札幌からかけつけました。戦後の勝野の発掘者で、『日本の近代16 日本の内と外』(中央公論新社)で国崎定洞ら在外共産主義者の運動にスポットをあてた、日本史研究の伊藤隆さん、それに国崎定洞の甥の国崎拓治さんも、出席してくださいました。この春ロシアの遺児アランさんと70年後につながった日本人粛清犠牲者健物貞一も早稲田大学の出身で、勝野の一年上で建設者同盟の軍研事件に関わりましたから、ご遺族が岡山から出てこられ、勝野家ご遺族に、貞一の弟松太郎の蔵書中にあったという『赤露脱出記』を手渡しました。私自身は、報告要旨に入れたパリ、ベルリン、モスクワでの勝野金政の周辺に、この間膨大な資料が現れた島崎藤村の3男蓊助の遺稿・遺品から、新たに判明した国崎定洞らベルリン日本人反帝グループの活動を配し、島崎藤村『夜明け前』(1929-35)の世界と日本コミュニズムの関わりを、考えてみました。この日に合わせて、共同研究者藤井一行教授は、勝野金政の戦前・戦後の全著作を収めたCDROMを作成し、「勝野金政の前半生」などを発表してきた藤井さんHP「日露電脳センター」で、公刊を始めました。貴重資料保存の新しい試みです。ぜひご参照ください。
島崎蓊助関係資料により、これまで私のベルリン日本人反帝グループ関係者一覧に入れていなかった何人かを、新たに探求しなければならなくなりました。本HP情報学研究室所収「政治と情報――旧ソ連秘密文書の場合」および現代史研究室所収「モスクワでみつかった河上肇の手紙」で、国崎定洞らとの接点を探求してきた『資本論』翻訳者宮川実の問題が、あっさり判明しました。島崎蓊助のベルリンでの足取りを追跡したところ、1929-30年に蓊助はベルリン大学付属外国人用ドイツ語学校に通っており、1929年12月第62クラス、30年3月第63クラスで小林陽之助(コミンテルン第7回大会日本青年代表)と同級、30年5月第64クラスで井上角太郎(竹久夢二と共に、ナチス政権下でユダヤ人救出活動)と一緒だったばかりでなく、30年8月の第65クラス名簿で宮川実と同級だったことが確認されました。ミュンヘン大学に留学した宮川も、ドイツ語会話はベルリンで勉強していたのです。蓊助のベルリン滞在記によると、勝本清一郎と共に1929年10月にベルリンに到着後、転がり込んだのは千田是也と映画監督衣笠貞之助が一緒に住むアパートでした。蓊助が左翼運動にのめりこんで後、新国劇脚本部樋口十一、女優長岡輝子、美術評論家土方定一がグループと接触したことが記されています。先に日本語新聞「ベルリン週報」との関わりで新たにリストアップした建築家白井晟一、市川清敏に加えて、いよいよ当時の日本の文化運動全体を探求しなければなりません。この間情報提供をお願いしている在独日本人の記念写真の候補者には、これらの人々も入ります。

島崎蓊助遺稿からわかった問題で、さしあたり最も重点的に探したいのは、これまで藤森成吉の「転換時代」(『改造』1931年10月)と島崎蓊助「在独日本青年素描」(『改造』1936年2月)のみと思っていたベルリン反帝グループのモデル小説が、どうやらもう一つあったらしいことです。白川敏「ベルリン紅団」というものらしいです。作者の本名はわかっています。村山知義の義弟岡内順三です。1933年に日本に帰国し、特高警察に詳しい供述を残していますから、発表は33年以降でしょうか。ベルリンからの寄稿かもしれません。特高記録には「白髭渡」という別名も出てきます。「ベルリン紅団」が書物のかたちか雑誌掲載かもわかりません。しかし、藤村『夜明け前』執筆開始の頃に出た川端康成の新感覚派時代の作品 『浅草紅団』をもじったものでしょうから、おそらく雑誌掲載でしょう。これまで全く手つかずだった探求ですので、特に戦前文学史・文芸誌に詳しい方々のご協力を求めます。katote@ff.iij4u.or.jp 宛て情報をお寄せ下さい。
このコーナーは、「情報収集センター」内にリストアップされた1930年代ドイツ及びソ連に滞在した日本人のなかから、私が特にその消息を探り、情報を求めている数人を選んで、スポットライトを当てる特別室です。「謎解き」よりもさらに詳しい経歴を紹介し、なんらかの情報を寄せていただくことを期待します。
幸いなことに、このコーナーは『読売新聞』1998年2月5日に大きく報道されるなど本HPの目玉として定着し、ここで探求してきた30年代旧ソ連在住日本人粛清犠牲者伊藤政之助については、1998年6月、モスクワのサハロフ博士記念人権センターのデータベースで、粛清前後の基本的事実が判明しました。同じデータベースに入っていた当時の日本人女子学生「テルコ・ビリチ」についても、99年2月、1912年東京生まれの「松田照子」さんと判明し、ご遺族に命日・埋葬地をお知らせし、資料をお届けすることができましたので、「テルコ探索記」にまとめました。ベルリンについては、ヒトラーが政権についた33年当時、ベルリン大学学生でユダヤ人救出に関わったとみられる井上角太郎について、本HPを通じてご親族からの情報提供があり、アメリカ在住の二人の娘さんにもメールで連絡がついて、その生涯の輪郭が明らかになりました。インド人チャットパディアについては、英語版の方に世界中から情報が寄せられ、レニングラードでの粛清など晩年の事情もある程度明らかになりました。
2000年中は、「1930年代ベルリンにいた日本人音楽家「二宮秀(周?)」、37年レニングラードで粛清されたという舞台監督「服部」某氏、32年ウラジオストックで行方不明となった船員「徹武彦」についての情報をお寄せください! 戦前ドイツで発行されていた日本語新聞『ベルリン週報』を知りませんか?」と欲張ったのですが、断片的な間接情報はありましたが、身元解明にはいたりませんでした。そこで「二宮秀」については、ベルリン関係で、「服部」某と「徹武彦」についてはモスクワ関係名簿で引き続き情報を求めることとし、21世紀の初めの年は、ベルリン関係は『ベルリン週報』を引き続き探索しつつ、モスクワ関係については、大島幹雄さんの「月刊 デラシネ通信」と提携して、サーカス芸人「ヤマサキ・キヨシ」の係累を、まず探したいと思います。実は年末に、ベルリン・モスクワの双方に関係する「小林陽之助」のご遺族から連絡があり、近くお話しを詳しく聞いた上で、こちらの方も特別研究室に入れることになるかもしれません。
2001年は、「ヤマサキ・キヨシ」と「ベルリン週報」を重点的に探索し、ヤマサキの手がかりはありませんでしたが、「ベルリン週報」については、名前が「ベルリン通信」だった可能性を含め、貴重な情報がいくつか寄せられました。ただし現物はみつかっていません。引き続き、「旧ソ連日本人粛清犠牲者名簿」「在独日本人反帝グループ関係者名簿」に収録して、皆様のご協力をお待ちしております。
加 藤 哲 郎
〒185-0003 東京都国分寺市戸倉2ー16ー41
電話(042)327ー9261 ファクス(042)327ー9262
Dr.Tetsuro Kato
勤務先 一橋大学社会学研究科 Hitotsubashi University
〒186-8601 東京都国立市中2ー1
電話・ファクス(042)580ー8276(ダイヤルイン )