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PROFILE: |
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「サイトオーナーのツツイは、どのようなプロファイルの人物で、なぜMBA留学をしているのか。」 |
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■名前:ツツイケンタ Kenta TSUTSUI |
- 某総合電機メーカにてIT関係の国際営業部門に所属。
- 留学費用:社費
- 年齢:32歳(03年1月現在)
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■大学卒業から留学までの略歴: |
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仕事関係 |
MBA関連 |
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92年3月 |
- 三鷹市の某大学卒業。教養学部教育学科 教育工学専攻(CAIの研究)
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92年〜97年 |
- 某総合電機メーカ入社
- コンピュータ関連の国際営業部で主に中国向けメインフレームシステムの販売に従事。
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97年8月
〜00年7月 |
- 北京にある拠点に出向。中国人スタッフとの連携や現場の厳しさを経験。
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- 98年頃:自分の能力をOff the
Jobで磨く必要があると痛感し、MBA取得を考え始める。
- 00年6月:初めてGMAT受験(@北京)。590点。
[結局この点数のまま出願することになる。]
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00年7月〜8月 |
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- TOEFL受験(ペーパー)。627点。TWE4.0。
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00年9月
〜02年3月 |
- 2.5"HDDの国際営業に加わる。米国大手PCメーカC社、H社等の担当となる。この時初めて国際的なPC業界の仕組みをかじる。
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- 日本で01年5月からオファーされる予定であった米国西海岸の州立大学MBAコースに出願するものの、主催者側の都合でコースがキャンセルとなる。
- 代替として01年6月からCS放送による遠隔教育MBAコースを受講開始するものの、仕事での激務が重なり両立できず。時間を取って勉強に専念することを覚悟。
- 01年末ころ:学校選定。University at Buffalo(SUNY
Buffalo)[以降UB]およびほか数校に絞る。
- 02年1月:TOEFL受験(CBT)273点。エッセイ5.0。
- 02年3月:推薦状をかき集め、エッセイ・レジュメ作成し、3月下旬に締め切りギリギリでUB出願。
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02年4月〜8月 |
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- 02年4月:UB合格。
この時点で出願検討していた英国のMBAは候補から外した。
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02年8月7日 |
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東京発、バッファロー着。現在に至る。 | |
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以下は上の表の内容を、もう少し細かく書いてみたものです。
「30歳前後の働くニッポンのサラリーマン」で「MBAに何らかの興味を持っている」という人を対象に、「なぜ32歳にして、UBにMBA留学しているのか?」という想定質問に答えるつもりで書いてみました。率直な回答にはなっていませんが、ある程度は答えになっているのではと思います。参考になりますでしょうか??
一寸長く、しかもダラダラと記憶をたどって書いているので、もし興味あれば、ということで。
なぜMBAを志望したか。
MBA留学志望を決意するまでの背景
- 小生が勤務している会社はOJTを基本をしている。そのため入社以来、職場の先輩の指導を中心に「仕事を教わる」ことが基本であった。もちろん会社の研修等もあったが、残念ながらあまり効果があったとはいい難い。(但しここ数年で、社内教育は大変充実してきた)
- さてOJTを基本としているため、どこの部署に配属されるか、また何を担当するかによって、同じ国際営業部内に所属していても仕事の内容や経験はまったく異なり、得る知識にも差が出てくる。
小生は入社後8年間 中国向けのコンピュータ・ビジネスに従事していた。この部署のメンバーは基本的に中国専任であったため、他部署との人事ローテーションが極めて少なく、ほとんど固定メンバーであった。中国関係の経験が積まれるメリットはあったが、人材が中国関係で固定していたため、グローバルな視点でのビジネスの見方が出来ておらず、非常に狭い視野・考え方に偏っていたと今では思う。但し、当時の小生は、もちろんそのようなことは意識さえしておらず、「仕事を覚える」「一人前の仕事をする」ということに必死だったと記憶している。 この頃、他部署の同期が社費留学制度で米国にMBA留学したが、なぜ文系職の人間が大学院で勉強しなければならないのか、全く理解できなかった(というか理解しようともしていなかった)。
- 97年、入社6年目、27歳で北京駐在となる。ちょうどこの頃、山一證券の倒産があった。このニュースに接して初めて「日本の大企業も、いつ潰れてもおかしくない」という認識と危機感を持つようになったと同時に、「日本も米国同様、従来の年功序列・終身雇用がなくなり、人材の流動が激しくなる」と、直感した。よって、自分のスキルも磨く必要があると、漠然と感じ、社外でも通用する力とは何かを漠然と考えはじめ、漠然とMBAを考え始めたのが、この時期。漠としていたのです。
- 何事にも切っ掛けというものはあるもの。
北京駐在中に某T氏という上司と仕事をすることとなった。某T氏と仕事をする以前、および仕事をし始めて暫くの小生は(恥ずかしながら)「会社の仕事をやってきた中で、教わらなかったことや経験しなかったことは知らなくても当然であり、私のせいではない」と心のどこかで考えていたのだ。しかし、そのようなことでは、今後のビジネスマンとして生きていけないと、かなり強烈な批判を受けながら仕事をした。また某T氏は、継続的な学習も推奨した。常に新しい情報を取り込み、仕事に応用できないか思考することや、不足する知識を自らの努力で補うことの重要性についても、指導してくれたのである。これが刺激となった。 ちょうどこのころ、以前から築いてきた主力事業が行き詰っていた。この行き詰まりに対し東京側が戦略レスな状態に陥ったことに嫌気を感じたのに加え、現場における自分の非力さも痛感し、一時期漠然としか考えていなかったMBAについて具体的に調べ始めた。ツツイ、28歳〜29歳頃。 (なおT氏はMBAホルダーではない)
- MBAで何が学べるのかを調べるにつれて、この学位こそ自分のニーズを満たすと確信。同時に出願までの大まかなスケジュールを把握した。
- この様な経緯で、米国留学によるMBA取得を大方針として設定したツツイはすでに30歳。遅かれ早かれ留学を検討していることを家族にも宣言した。
- なお日本国内のMBAではなく、「米国留学」とした主な理由は以下の通りである:
- 小生が所属していたIT分野の国際営業本部は、米国が関係するビジネスがメインストリームとなっていた。一方で小生は入社以来中国関係事業の業務にしか携わっていなかったことが、コンプレックスとなっていた。
- しかし英語には自信があった。これは、8歳から12歳まで米国に住んでいた経験や、高校・大学で英語に重点を置いた教育を受けたことによる。
- IT業界は米国のビジネスコンテクストで動いている。よって米国でのビジネス原則を学ぶ必要があった。
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なぜUBへの社費留学となったのか。
MBA留学決意から、UBに特定するまでの経緯
- さて北京駐在中に、米国へのMBA留学を決心したツツイは30歳であった。自習でGMATの問題集を1ヶ月ほどやってみた。その後、試しに北京でGMATを受験。結果590点。「お試し」の受験であったはずなのが、結局は再度受験することはなく、このスコアで出願することになる....(苦笑)
- 2000年7月東京帰任。ここで留学の具体計画を練り始めた。
だが突如、ノートPCメーカ向けのハードディスク営業部門に、9月付けで異動となった。対象顧客は欧米および台湾の各メーカである。入社以来、中国一辺倒で、上述の通り欧米関係の仕事を経験していなかったことにコンプレックスを持っていたこともあり、この異動は仕事経験上プラスになると判断、会社に残り仕事を続ける決心をする。 また同時期にパーソナルな事情も発生したため、留学は取りやめ、仕事を続けながら、私費で国内のMBAコースを受講することに方針変更。
- 国内でのMBA取得を検討し始めた矢先(00年9月頃)に、米国某州立大学が週末のMBAコースを01年5月から東京で開講することになり、学生の募集を開始していた。何度か話を聞きに行き、最終的に、これを受講することに決心。GMATの再受験も不要であったため、そのまま出願。ほぼ合格間違いないと踏んでいたところ、01年3月〜4月頃、突如開催中止が申し渡された。怒ってもはじまらないので、対策検討の結果、CS放送をメインとして自宅で受講する米国MBAコース(但し、2年目に留学しない限り、学位は取得できないもの)を申し込み受講開始することにした。01年6月から受講開始。ツツイ、31歳。
- しかし受講開始と同時期に、これまたタイミング悪く仕事の激務と重なってしまった。毎日7時には出勤、終電で帰宅(時には終電後のタクシーで帰宅)という日々が続く。しばらくはペースをキープしていたが、ついには両立不可能な状態に陥った。
これをきっかけに「時間を取って、勉強に集中する時期が必要である」と判断。01年9月以降、再度留学を検討開始。年齢的なことや、家庭の事情も考慮すると、02年秋の留学が決定しなかった場合は留学を断念せざるを得なく、ラストチャンスとなった。
- 留学にあたっては、私費を予定していたこと、またGMAT対策の時間的余裕もないことから、現行取得スコアでいける学校を対象に、願書の取り寄せや、サイトでの情報収集を開始する。また経済的な点を考慮し、米国の1年制の学校や、欧州の学校も検討範囲に入れた(欧州の学校は多くが1年制である)。
- このような中で、Business WeekのランキングでThird Tierに入っているSUNY
BuffaloことUBが志望校として浮き上がる。州立の学校であるためか学費が安く、尚且つ、Third
Tierとはいえランキング入りしている学校である、というのが大きな理由であった。同時にイギリスの某学校も、パンフレットを読むにつれて非常に魅力を感じ、惹かれた。よってこの2校に絞り込むことにした。出願締め切りが、UBが02年4月頭必着であったのに対し、イギリスの大学は少し後まで余裕があったので、まずはUBの出願準備に集中するにした。この時点ですでに02年1月。
- 業務の忙しさや(海外出張など)、仕事を中断(休職あるいは退職)し私費で留学するということへの躊躇いも影響し、なかなか出願書類の完成までたどり着かなかった(決心しても迷いはあったのです...)。特にエッセイと推薦状に手間取る。エッセイは書き出すまでが億劫で、最後の最後まで残っていた。また推薦状については、会社に内密に留学準備を進めていため、誰に依頼するかが問題であった。
- 時間的余裕がないのに、ボヤボヤしていた02年2月のある日、突如異動の辞令申し渡された。4月1日付で、もともと所属していた部署に戻るという辞令である。これでイヤでも、手がけていたハードディスクの仕事に区切りがつくこととなったので、それまでの迷いや戸惑いは一気に吹っ切れ、留学の決心は確かなものになった。
突然出願準備の仕上げにドライヴが掛かった:先ず、なかなか手をつけていなかったエッセイが完成。そして推薦状も、かつての人脈をたどり、結果的には2通取り寄せることができた(10年もサラリーマンをやってると多少理解者や味方となってくれる方と知り合えると実感し、感謝した)。02年3月、願書一式をDHLで発送。このときツツイはすでに32歳。
- 02年4月1日付けで、元の部署に出戻り。
- 4月下旬、UBから合格通知が届く。この時点でUBのMBAに留学決意。イギリスの学校は出願も辞めた。これは、(1)本来 米国でビジネスを学びたいと考えていたこと、および(2)イギリス英語による授業は自分には困難との容易に推測ができたこと、の2点が大きく影響している。
- 02年5月、退職覚悟で、会社に2年間の休職を願い出る。
数日間に渡る上司との相談を経て、所属部署の方々のご好意により、社費留学扱いとしていただけることになった。感謝しています。
- 02年8月:バッファロー着、現在に至る。
03年1月6日記(思いついたこと、思い出したことがあれば、また追記していきます。) |
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2003/3/17 追記修正およびデザイン変更。
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