
| デリックの後を継いだグレゴリー・ブランドンは、妻のアリスとホワイトチャペル地区のローズマリー小路に
居住していたが、その行状の悪さは札付きで、しばしば官憲と悶着を起こし、1611年には故殺罪に問われた。しかし、このときは聖職者の特権を申し立てて、親指に焼き印を押すことで罰を逃れている。
1616年、ブランドンは紋章官ウィリアム・シーガー卿を騙し、紋章を取得。このため、ブランドンは、しばしば "Esquire Brandon" と揶揄された。 グレゴリーは30年近く死刑執行人を務めた後、息子のリチャードを後継者に残し、1640年頃死亡した。
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| リチャード・ブランドンは、幼少の頃から犬や猫の首を刎ねて父グレゴリーの跡を継ぐ心構えをしていたといわれ、死刑執行人の地位を世襲したほとんど唯一の男である。しかし、彼の名を歴代執行人の中でも特に異彩を放つものとしているのは、英国史上で最も有名な死刑囚、すなわちチャールズ1世の処刑の時に死刑執行人の地位にあったということだ。ただし、この哀れな王の首に斧を振り下ろしたのが果たしてリチャード・ブランドンなのかどうかについては異論があり、これを否定する説も有力である。
いずれにしろ、国王の処刑という大事件で頂点を迎える内乱の時機に、彼が辣腕を振るったのは紛れもない事実である。特に重要な犠牲者としては、1641年に反逆罪を理由にロンドン塔のタワー・ヒルで処刑されたトーマス・ウェントワース卿、すなわちストラフォード卿を挙げるべきであろう。これはまさにチャールズ1世処刑の伏線といえる事件であり、卿の死亡証明書に署名を求められたチャールズ1世は、避けられぬ自分の運命を予感してか、「余がストラフォードの有り様は、余よりも幸せである」と涙を落としたと伝えられる。 ブランドンは、その後も精力的に王党員の首を刎ね続け、ハミルトン公爵やホランド伯爵など有力な国王側の貴族たちはことごとく彼の斧によって処刑された。死刑執行人としては熟練者の部類に入るブランドンであるが、吹き荒れる粛正の嵐の片棒を担ぐことに良心の呵責を覚えていたとされ、1649年6月20日に苦悩の末に死亡した。納棺の時には大勢の民衆が彼の棺桶を取り巻いて口々に罵り散らし、ホワイトチャペルの墓まで棺を運ぶのもやっとだったという。その墓石には、「チャールズ1世の首を刎ねた男」と刻まれている。
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| 血なまぐさい革命の真っ最中にリチャード・ブランドンの跡を継いだのは、ウィリアム・ローエンという男である。残念ながら、死刑執行人となる前はクズ拾いであったということ以外、彼についてはほとんど何も分かっていない。
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| エドワード・ダンが正確にいつからローエンに代わって死刑執行人に就任したのかは不明だが、王政復古の前後に死刑執行人を務めていたことは確かである。したがって、チャールズ1世の審問・処刑宣告に関わった67人の高等法院判事たち、いわゆる "Regicides" のうち王政復古後に捕らえられ裁かれた9人の判事(その時点では41名が存命、うち15名は国外逃亡していた)を処刑したのはエドワード・ダンということになる。
これに加えて、彼の名は王政復古にまつわる幾つかのエピソードとも結びついて記憶されている。クロムウェル、アイアトン、ブラッドショーの死骸が、王政復古後ウェストミンスター寺院にあるヘンリー7世のチャペルから掘り出され、死してなお国王殺しの罪を贖わされたことは有名だが、その執行を直接命じられたのがダンだといわれている。クロムウェルら三体の遺骸は、チャールズ1世の命日である1月30日にタイバーンへ運ばれ、日没まで絞首台に吊るされたあと、首を切り落とされ、その首はウェストミンスター・ホールの屋根に、少なくともチャールズ2世の治世中さらしものにされた。 こうした忌まわしい汚れ仕事に、なるほど、死刑執行人ほどふさわしい者はいなかったであろう。
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| いよいよ英国史上で最も悪名高い死刑執行人、ジャック・ケッチの登場である。イングランドの民衆が彼に抱いた強烈な憎悪と侮蔑とによって、その名は彼個人の存在を超越し、すべての死刑執行人に共通の渾名、死刑執行人そのものの異名となっている。
死刑執行人の任務に就く以前のケッチの経歴は、1649年に債務者監獄である王座裁判所監獄に1年間投獄されていたことのほか何も分かっていない。さらに、実のところ、その伝説的な悪名の高さから期待されるのとは裏腹に、23年間にも及ぶ彼の在任中の大半については、ほとんど何も伝わっていないのである。今ではただ、その度し難い無神経さと想像を絶する処刑技術の拙劣さを物語る幾つかのエピソードを通じて、彼が金で雇われた死刑執行人、おぞましい人殺しとして、当時の民衆に与えた憎悪と恐怖の大きさを想像するしかないのだ。 今に伝わるケッチの数少ない物語は、チャールズ2世の暗殺未遂事件であるライ・ハウス事件に関係したとして僅かな証拠で 反逆罪に問われたウィリアム・ラッセル卿の処刑から始まる。1682年7月21日に斬首に処すとの判決を受けたラッセル卿は、引き立てられてきた処刑場のリンカーン・フィールズで、斧を片手に待ち受けるケッチの姿を見ることになった。卿は、手際よく仕事を片づけ、無用な苦痛を与えぬよう10ギニーの心付けをケッチに与えた。にもかかわらず、ケッチの斧の第一撃はラッセル卿の首に傷を負わせただけであった。卿は断頭台上で首をねじ曲げてケッチを睨み、「こんな残酷な仕打ちを受けるためにお前に10ギニーを渡したと思うのか」と唸った。しかし、もう一度振り下ろした斧もラッセル卿の首を胴体から切り離すことはできなかった。噴き出す鮮血と苦悶のうめきのなか、ケッチはさらに繰り返し斧を振るい、それから二撃目にしてようやく片を付けることができたのだった。 これに続いて、モンマス公の処刑でケッチが演じた失態も、彼の死刑執行人としての失格ぶりを如実に表すものである。モンマス公は「ラッセル卿の二の舞をするではないぞ」として6ギニーを与え、さらに首尾よく遂行できたらケッチに渡すようにと従者に数ギニーを握らせた。しかし、このときもケッチはラッセル卿の時と同様、いやそれ以上の惨劇を引き起こし、モンマス公は最後にナイフで首を切り落とされる羽目になったのである。 四半世紀近い死刑執行人としての任期を通じてケッチはまた、気の遠くなるほど大勢の、無名の庶民たちの処刑を手がけ続けた。絞首刑執行に際してもケッチが無能ぶりをさらけ出したかどうかは分からない。しかし、それがどうであれ、ケッチはその能力とは無関係に死刑執行の第一人者として各地の死刑場へと派遣され、その地の執行人を手伝ってノウハウを教え、あるいは自ら実演してみせることも多かったに違いない。こうして、死刑場で跳梁する卑しい刑吏としてのジャック・ケッチの名は、冷酷なジェフリーズ判事や血なまぐさい巡回裁判への恐怖と結びついて、死刑執行人という職業の真の姿――普通の人間とは隔絶した唾棄すべき殺人者――を端的に表象する言葉となっていったのだ。 ケッチは1686年の初めに司法長官を侮辱した廉で一時解雇されたが、数ヶ月後に復職した。しかし、その年の12月、ついにケッチにも、人みなに平等に訪れる死という運命が襲いかかる時が来た。かくも多くの非業の死に立ち会い、自ら手を下してきたこの男の最期がいかなるものであったのか、今となっては誰も知る者はいない。
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| パスカ・ローズは1686年に解雇されたジャック・ケッチの代わりに死刑執行人に任命された。本業は屠殺人であり、その点で死刑執行人の仕事には適材であったといえよう。
しかし、同年5月28日、ローズ自身が家宅侵入と窃盗の罪で捕まり、新しい職場であるタイバーンで絞首刑に処された。このため、ケッチが(短期間ながら)復職することになった。
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| この男についても、その名前の他はほとんど何も分かっていない。
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