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イギリスにおける絞首刑の歴史は古く、姦淫を犯した女は自分で首をくくり、その死体は情夫の火葬用の積み薪によって焼かれるべしと定めていたサクソン法にまで遡ることができる。したがって、絞首刑は、キリスト教と比肩しうる最も由緒正しいイギリスの伝統の一つということができよう。 その当時から、絞首刑はイギリスの公式の処刑法として存続してきたが、ウィリアム1世の治世に切断刑が採用されたことで一時的に絞首刑が中止されたこともあった。しかし、遅くともヘンリー1世の時代には復活して絞首台は再び死刑執行の主要な舞台となり、1814年には、軍法による裁判を除いて極刑を加える唯一の手段となるに至った。
「絞首」による死は、索状物(ロープ)を首にかけ、自己の体重を用いて頸部を圧迫し、これによって頸部の動脈を閉塞して脳に急性貧血を生じさせることによってもたらされる(注1)。 人間の首には、前頸部に頸動脈、後頸部には脊椎動脈の二本の動脈が走っており、前者は自分で触っても搏動を感じられるようにかなり皮膚表面に近いところにあるため、5kg弱の圧力で容易に閉塞するが、後者は後頸部の厚い筋膜に覆われているため外部からの圧力では閉塞しにくく、16〜30 kgの力が必要とされる。したがって、死刑囚自身の体重を利用する「絞首刑」は、両動脈を容易に、かつ完全に閉塞させる手段としては最適であり、首吊り自殺の場合、一般に絞頸開始から 8〜12 秒で意識不明に陥るといわれている(試さないこと)。その意味では無用の苦痛を与えぬ「人道的」な処刑法と思われるかもしれない。 しかし、両動脈の完全閉塞には、ロープが理想的な位置と角度で頸部に食い込むことが必要であり、たとえばドストエフスキーの『悪霊』の主人公スタブローギンが、首を吊る前に十分吟味した丈夫な絹紐に石鹸をべったり塗りつけたように、楽な縊死のためにはある程度の周到さとコツが不可欠のようである。 現にイギリスでも、死刑執行人によるロープのかけ方が下手であったため、あるいは受刑者自身が僅かの間でも生き長らえようと必死で身悶えするために、速やかな死には程遠い凄惨な苦悶が長々と続くことも少なくなかった。このような場合、受刑者の両脚を引っ張って、無意味な断末魔の苦痛を終わらせてやるのも死刑執行人の役目であった。
変化が見られるようになったのは、ようやく18世紀中頃になってからである。1760年のフェラーズ伯爵ローレンス・シャーリーの処刑を機に、タイバーンでは絞首台の横木につながった縄を首に巻かれた受刑者が自分ではしごを登って跳び下りたり、あるいは横木の真下に足台を置いて受刑者をその上に立たせ、執行人が足台を引き抜く、というような方法がとられるようになった。 こうした落下による絞首法は、落下の衝撃で頸椎が折れて瞬時に意識を失う、より穏当な方法と思われるが、実際には落下距離が足りず、断末魔の苦しみはほとんど和らげられることはなかった。むしろ、頸椎は無傷のままで首の筋肉が断裂し、余計な苦痛を与えるだけに終わる方が多かった。1845年、手際の悪さで知られた死刑執行人カールクラフトがアリスバーリーでジョン・ターウェルという男を絞首したときの様子を、タイムズ紙は次のように報じている。
「ロング・ドロップ」による頸椎破壊のおかげで絞首刑が真に「人道的」なものとなったのは、受刑者の体重と縄の適切な長さとの対応関係が究明された比較的最近になってからで(対応表)、イギリスの正式の絞首方法となったのは1874年のことであった。
とはいえ、こうした眩暈のするような光景は、ひとりイギリスの専売特許というわけではなく、中世後期に至るまで中部ヨーロッパ全域において事情は似たようなものであった。そそり立つ処刑台の上で揺れる朽ち果てた屍のシルエットは、強大な王権や領主権を誇示する魅惑的なシンボルに他ならなかったのである。15世紀フランスのヴィヨンは、自らも宣告されたことのある絞首刑の印象を次のように詩っている。 雨露は われらを洗いすすぎ、
イギリスでは絞首する時間は30分と法律で定められていたが、前述の「ショート・ドロップ」の時代には、絶命したはずの受刑者がその後息を吹き返すこともあった。通常、処刑の失敗は神の意思によるものと考えられていたため、二度目の執行は行われないというのが原則であった。
しかし、このような折角の「死刑台からの生還」も、刑死者の死体の多くが外科医のもとに運ばれ、入場料を払った多数の見物人の見守るなか解剖される運命にあったため(ヘンリー8世時代に認められるようになり、18世紀には、外科医たちに年に10体の死体が割り当てられていた(注2)。吊るしたての死体を外科医会館に運ぶのも、むろん死刑執行人の役目である)、蘇生のタイミングによっては必ずしも手放しでは喜べない状態に陥っている自分を発見することもあっただろう (拡大)。
より幸運な例としては、1767年、パトリック・レイモンドという強盗がアイルランドのマークで絞首刑の判決を受け、28分以上も吊るされていながら、5、6時間経過してから解剖にあたるはずであった外科医の手で蘇生させられたという記録がある。この男は、その後赦免を受けたということである(半吊りのスミスについて)。
最後にもう一つ、イギリスの絞首刑を語る上で忘れてならないのは、イギリスが全ヨーロッパを通じて最も多くの子供を絞首台に送った国であるということだ。 『オリヴァー・トゥイスト』のフェイギンが、口を割らずに5人いっぺんに絞首されていった手下の子供たちを誉めたように(なぜなら、「口を割ったところで絞首台の綱が解けるわけでもないし、踏み台が一分でも余計に留まってくれるわけでもない」から)、イギリスでは「悪意の明らかな証拠」がある場合は、7歳から絞首刑を適用しうると定めていたのである (注3)。たとえば、1800年、ロンドンで小間物商の帳簿を偽造した10歳の子供が詐欺罪で絞首刑に処され、1808年には、チェルムズフォードで7歳の子供を放火犯として処刑、1831年にはやはり放火の罪で13歳のジョン・ベルという名の少年がメードストンで絞首されている。 19世紀前半までは、こうした子供の絞首刑の例は枚挙にいとまがなく、1833年にショーウィンドーの割れ目から棒をさしこんで(不法侵入を構成する)、2ペンス相当の絵の具を盗んだニコラス・ホワイトという9歳の少年の公開処刑をもって、ようやく幕が下ろされた(注4)。
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| 注1 | なお、わが国では明治六年太政官布告六五号によって、死刑は「絞首」によると定められているが、これは法医学上は、体重を用いず人間の力によって圧迫する「絞頸」のこと(ひらたく言えば、他人が絞め殺すこと)であり、ゆえに現在採用されている絞首刑、すなわち「縊頸
(首吊り)」は法律上の根拠を欠き違憲である、として争われたことがある。 この点についての裁判所の判断は次の通り。 「絞首とは、受刑者の首に縄をかけ、これを緊縛することによって窒息死させる執行方法をいい、その緊縛について受刑者自身の体重が利用されるかどうかを問わない。」 (東京地判昭35・9・28 行例集11-9-2753)
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| 注2 | 解剖は審判の日に実質的な肉体の復活を妨げると信じられていたため、罪人自身のみならず一般大衆も、処刑そのものよりもむしろ刑後の解剖を忌み恐れていた。 他方、解剖用の死体の不足は深刻で、いきおい墓からの死体泥棒がはびこることになった。1776年には、出荷を待つばかりにされた100体以上の盗掘死体がトッテンハム・コートロードの納屋で発見される事件が起きている。 なお、絞首死体しか解剖できないという制限は、1832年の解剖法によって廃止された。
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| 注3 | エドワード3世時代以前は、国王への忠誠を宣誓できないという理由から、12歳以下の子供は重罪を犯し得ないとされていた。その後、7歳以下に引き下げられた後も、しばらくは14歳までは事実上の免責が与えられていた。しかし、ヘンリー6世の頃になると、子供に対しても容赦がなくなっていたようである。その時代には、わずか4歳の子供であっても、人身に対する不法侵害(trespass
to the person、つまり暴行など)に問うことができるようになっていた。 ずっと時代を下り、1908年に16歳以下の子供に対する死刑を禁止する法律が制定され、さらに1933年に死刑の下限年齢は18歳に引き上げられた。
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| 注4 | 公平のため、子供に恩赦が与えられた例も紹介しておこう。 それは、1748年、サフォークの救貧院で起こった陰惨な事件である。当時10歳の少年ウィリアム・ヨークは、5歳の少女スーザン・マヒューを殺害した罪で逮捕された。二人は、救貧院の同じベッドに寝起きしている仲良しだった。 5月13日、二人はケンカし、スーザンは泣きながら裏庭の堆肥の山の方に走り出していった。ウィリアムは彼女の後を追った。追いついたウィリアムはスーザンの手を掴んで振り向かせると、いきなりナイフで切りつけた。刃先が骨に食いこむほど力をこめて、ウィリアムは彼女の腕や腿に何度もナイフを振り下ろした。それからウィリアムは手桶に水を汲んできて死体の血を洗い流すと、堆肥の中に隠した。 スーザンの姿が見えなくなったことに不審を抱いた救貧院の職員がすぐに死体を発見し、ウィリアムは犯行を自供して裁判にかけられた。ウィリアムは殺害の動機を、「スーザンは不潔でベッドを汚してばかりいたし、とても怒りん坊だったから」と答えた。裁判官は彼に死刑を宣告した。 しかし死刑の執行は、ウィリアムの幼い年齢のために何度も延期され、最終的に恩赦が与えられた。
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