
| 毎年11月5日、イギリスの町々では子供たちが奇妙な人形を引きずりまわし、あちこちで大きなかがり火が焚かれる。子供たちが最後に人形を焼き捨てる炎と、夜空を明々と染めあげる花火で終わるこの伝統的行事を境に、北国イギリスは足早に冬の彩りを深めていく。
11月5日は、イギリス史上で特異な地位を占める日付である。1854年のこの日、英仏連合軍がクリミア半島のインカーマンでロシア軍を撃破し、1688年の同日にはウィリアム3世がトーベイへ上陸して名誉革命が始まった。そして1605年11月5日には、イギリス全土を揺るがす未曾有のクーデター未遂事件が勃発した。いわゆる火薬陰謀事件(Gunpowder Plot)がこれであり、その首謀者の一人、ガイ・フォークスこそ、今に残る火祭の主人公、子供たちの引き回す人形のモデルである。 1572年のサン・バルテルミの大虐殺と1641年のアイルランド大虐殺のほぼ中間にあたる1605年、陰謀事件を引き起こしたのは、やはりカトリック教徒であった。 ヘンリー8世の宗教改革によって弾圧されたカトリック教徒は、続くメアリー女王の治世で力を回復したが、エリザベス1世の狡猾な宗教政策のもとで再び少数勢力へと転落した。そのため、エリザベス1世が処女王のまま世を去り、スコットランド王のジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王に即位したことは、カトリック教徒に勢力挽回への明るい希望をもたらすものであった。エリザベス1世に処刑されカトリックの殉教者と崇められるスコットランド女王メアリーを母にもつジェームズは、自身もカトリック信者として、スコットランドでカトリック教徒に寛容な政策を採っていたからである。 しかし、先手を打ったのは清教徒たちであった。清教徒はイギリス国教会からカトリックの影響を払拭することをめざしており、エディンバラからロンドンに向かうジェームズの一行を待ち構えて「いとも慈悲深き、恐懼しまつる主上よ」の名文句で始まる請願文を手渡した。「千人請願」として知られるこの書状は、教会の規律や礼拝に関する清教徒の年来の主張を国王への忠誠とともに切々と訴えたもので、それまで足を踏み入れたこともない大国の王となる不安に戦いていた新国王の胸に甘美この上ない慰安の響きを与えたに違いない。 かくして上機嫌のうちにホワイト・ホールに宮廷を構えたジェームズは (注1)、さっそく清教徒への締めつけを緩め、翌年、ハンプトン・コートに国教会、清教徒をはじめ、宗教界の代表を集めて会議を開いた。しかし、清教徒の復権を世に知らしめすはずであったこの会議は、彼らの期待をまったく裏切り、国教会の猛反撃の場となった。従来弾圧してきた清教徒の巻き返しに驚いた国教徒がジェームズを説き伏せ、ついに清教徒こそイングランドの教会制度を根本から覆す不逞の輩であると信じ込ませることに成功したのである。結局、会議は従前どおり清教徒とカトリックの双方を排除する旨を宣言し、「主教なければ国王なし(No bishop, no King)」の言葉で幕を閉じた。 とはいえ、清教徒は王権に対する法の優位を説くコモンロー主義者と結束することによって、その後も議会に一定の発言力を確保することに成功した。悲惨であったのはカトリックである。カトリック側には有力な味方もなく、日に日に苛烈さを増す弾圧のなかで絶望と焦燥を募らせるばかりであった。こうした状況のもとで、過激なカトリック教徒グループが裏切者の国王のみならず、怨敵・清教徒の跋扈する議会をもまとめて一挙に葬り去り、その混乱に乗じてカトリックの手により王国を掌握しようとしたのが火薬陰謀事件である。
ガイ・フォークスは良家の出であったが、ネーデルランドでスペイン軍に従軍するほどの熱狂的なカトリック信者であり、1603年にイギリスに戻ってきたばかりであった。このことから、もともとスペインの密命を帯びてクーデターの機会をうかがっていたのではないかと想像することもできよう。ともあれ、裕福なジェントルマン階層を中心にメンバーは着々と増え、空前絶後のクーデター計画は俄然現実味を帯び始めた。 一味の一人であるトーマス・パーシー(1560〜1605)は、ノーサンバーランド伯の遠縁にあたり、王宮にも出入りするほどの男だったが、まずは彼の口利きによって、首尾よくウェストミンスター宮殿に隣接する一軒家を借りることができた。この時の計画では、この家から宮殿の内壁の内側深くまで地下坑道を掘り進み、このトンネルを使って議員たちの足の下に爆薬を運び込む手はずであった。1604年春に立てられたこの計画は、諸事情から何度か延期されたのち、同年の末に実行に移された。 メンバーはいずれも家柄の高いジェントルマンたちであったため、地下トンネル工事といった肉体労働には全く不慣れではあったが、見慣れぬ男たちの出入りや買い出しによって近隣の不審を招かぬよう大量の食糧をあらかじめ一軒家に蓄えておき、ここでカンヅメ生活を送りながら、燃えるような宗教的使命感に衝き動かされるままに彼らはひたすら掘削工事を進めていった。 しかし、この辛いトンネル工事は、幸いにも間もなく不必要なものとなる。 これは陰謀団一味にとって降って湧いたような僥倖であった。彼らは早速トンネル工事を放棄すると、その石炭屋から空いた石炭置場を借りる契約をし、かねてより準備しておいた36樽もの爆薬をこの地下室へと運び込んだ。そして、爆発の威力を増すために、石や鉄の破片を爆薬に混ぜ、その上へ焚き木を丹念に積み上げた。 以上の準備が完了したのが1605年5月のことであった。爆破期日は、当初、議会の開会予定日の10月3日としていたが、後にジェームズが開会を11月5日に延期したため、クーデターの実行もその日に変更された。 運命の日までの数ヶ月、陰謀団には、爆破計画の細部の詰めや、国王・議員ら爆殺後の事態収拾、支配権掌握の手はずを周到に練り上げる仕事が残された。 まず、問題の11月5日には、メンバーの一人が狩猟会を開いてカトリックの有力な知人たちを集めておき、爆発の報を合図に彼らの全面的な協力をとりつける予定であった。そして、皇太子ヘンリーは父王ジェームズと運命を共にする公算が高いことから、新国王にはチャールズ王子(後のチャールズ1世)をまつりあげることに決まった。 爆破の具体的手順は、以下のようなものであった。最も大事な爆薬の点火係は、既にリーダー格となっていたガイ・フォークスが務める。ただし、フォークスが爆発の巻き添えを食わぬよう燃えの遅いマッチを導火線代わりに用いる。点火後フォークスは直ちに脱出してテムズ河畔に向かい、待機させておいた小舟に飛び乗って、そのままフランダーズへ亡命する――。単純であるがゆえに、かえって隙のない賢明な作戦と言えるだろう。 運命の11月5日は日一日と迫ってくる。ジェームズ1世と議員団の命は、もはや風前の灯である。だが、もちろん、今から4世紀近く前のこの日にイギリス国王が轟音と血煙の中で命を落としたという史実はない。ここまで巧みに練り上げられた壮大なクーデター計画は、やはり失敗するのである。それも、情報漏れという、余りにも陳腐な理由によって、いともあっさりと。 ジェームズ抹殺では一枚岩の陰謀団一味も、議員たちを皆殺しするかどうかでは最後まで意見が別れた。すなわち、カトリック系の議員たちには開会式当日に欠席するよう事前に警告しておくべきではないかという主張がメンバーの一部に根強く存在したのである。ケイツビーは、このような事前の警告は必ず陰謀自体の発覚につながるとして強硬に反対し、非情に撤する必要性を説いたが、メンバー全員を完全に納得させるには至らなかった。このように、いよいよ大詰めで露呈したほころびが、結局ジェームズと彼ら陰謀団の運命とを入れ換えてしまうことになる。 陰謀の破綻は、モントイーグル卿が10月26日に入手した一通の匿名の手紙から始まった。「11月5日の議会は欠席すべし」と書かれたこの手紙の差出人は、卿の義弟であり、陰謀首謀者の一人でもあったフランシス・トレシャム(1567〜1605)だった。トレシャムが、単に義兄を無残な死に追いやるに忍びなかったのか、恩を売っておいて爆破後の有力な支持者を増やそうと気を利かせたのか、それとも自分たちのしようとしている事の重大さに遅ればせながら気付いてなした純然たる密告であったのか、それは今となっては知る術もない。だが、いずれにしろ、この手紙をきっかけに、陰謀の全容がたちまち政府に筒抜けとなってしまったのである。 もっとも、こうして情報が漏れたことは、モントイーグル家の下僕を通じて陰謀団も知ったようである。しかし、もはや後戻りできないと悲愴な玉砕の決意を固めたためか、あるいは計画全体の正確な段取りまでは発覚していないと高をくくったためか、彼らは奇妙なほど無頓着に運命の11月5日へと突進していった。 前日の11月4日午後、地下室へ宮内長官サフォークとモントイーグル卿の二人がなに喰わぬ顔で降りてきた。翌日の壮挙に備えて最後の準備作業に余念のなかったフォークスは、地下室の借主となっているパーシーの使用人になりすまして、こちらもなに喰わぬ顔で彼らをやり過ごした。フォークスとしては、既に自分の手中にその運命が握られている敵どもをまんまと欺いてやったとほくそ笑んだかもしれない。 そして翌5日午前2時、突如入り口の扉を蹴破ってウェストミンスター検察隊長トーマス・ネヴェット率いる逮捕隊が地下室に突入。ガイ・フォークスは抵抗する間もなく捕縛され、この瞬間に火薬陰謀事件はクーデター「未遂」事件として歴史に刻印されることが決定した。 この後の展開は、事破れた反逆犯たちのありふれた末路を見るだけである。計画の挫折を知った陰謀団はすぐにロンドンを脱出するが、ケイツビー、パーシーら4人は潜伏先を警吏隊に襲われ、抵抗した末に殺された。 最初に逮捕されたガイ・フォークスは、まずホワイト・ホールに連行され、ジェームズの寝室でジェームズ本人と枢密院議長の厳しい尋問を受けた後、ロンドン塔へ投獄された。そして、逃亡先の各地で捕まった陰謀団の残党たちと一緒に有罪の判決を受け、事件から約3ヶ月後の翌年1月30日と31日、聖パウロ大聖堂墓地の西端と議事堂正面のオールド・プレイス・ヤードで四つ裂きの刑に処された。首謀者として特に苛酷な取調べを受けていたフォークスは、一人では絞首台に上れないほど衰弱していたと伝えられる。 ウェストミンスター宮殿の英国議会の開院式前には、現在でも、議場の地下室をはじめ、廊下や各集会室の捜索が行われる。火薬陰謀事件にちなんで真紅の制服に身を包んだヨーメン・オブ・ザ・ガードがランプを持って宮殿を見回っていた古式豊かな儀式は、北アイルランド紛争以降は単なる伝統行事ではなくなった。強力なサーチライトと警察犬を駆使した徹底的な大捜索が、400年前にガイ・フォークスらが爆砕を夢みた同じ場所で毎年繰り広げられていると知ったら、彼らはなんと言うだろうか――。
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| 注1 |
もっとも、即位後息をつく間もなく、ジェームズは相次いで深刻な事件に見舞われている。一つは、ジェームズの従兄にあたるアラベラ・スチュアートをジェームズに代えて王位に就けようとしたコバム卿の陰謀事件であり、二つ目はウィリアム・ワトソンが起こしたカトリック容認を求める陰謀事件である。この二つの事件は、相前後して起きたことから、それぞれメイン事件(Main Plot)、バイ事件(Bye Plot)と呼ばれる。 なお、ジェームズはこのとき意外な寛容さを示し、メイン事件の首謀者たちに対する斬首の刑を一等減じて監禁刑とした上でロンドン塔に送っているが、そのなかにウォルター・ローリーが含まれていた。彼が15年後に処刑されるまでの間に塔内で『世界史』を書き上げることになるのは周知の通りである。
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